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Ο μ φ α λ ό ς

ギリシャは想像以上に乾燥している。湿度の高い日本の気候に慣れているせいもあるのだろう。この厳しい環境の中育つことのできるオリーブやワイン用のブドウ、トマトのたくましさや美味しさのことなどを想った。滞在していた期間、ただでさえ乾燥しているギリシャ全土にサハラ砂漠から砂が運ばれ、すべてのものが砂をかぶっていた。強風に塵が舞い、道で買ったアイスクリームにも砂が付いた。ちょうど持ってきていたボルヘスの『砂の本』を読むにはぴったりだ。アテネからバスで3時間ほどかけてデルフィに着いた朝、ようやく雨が降った。

デルフィは古代ギリシャではΔελφοι(delpoi/デルポイ)と呼ばれた宗教的な中心地で、ここが世界のおへそだと考えられていた。神話によるとゼウスが世界の中心を決めるために地平線の両端から2羽の鷲を放ち、その鷲が再び出逢った場所がデルフィだったという。ここにはゼウスの息子、アポロンを祀る神殿の遺跡がある。アポロン神殿では日々巫女を通して神託が降ろされ、各ポリスも共通で従うこととされていた。

アポロン神殿の遺跡から見つかったのが、このOμφαλός (Omphalos/オンパロス)と呼ばれる目印だ。古代ギリシャ語で「おへそ」を意味するこの円錐形の石のマークは、ちょうど2匹の鷲が出会った場所を指し示すために置いてあるとされているそうだ。表面は網目の紋様が覆っていて中央は空洞になっている。アポロチョコのようなこの形状には神話上の理由(ゼウスの母が出産した際に子が父に食われないように子をクレタ島に隠し代わりに石を布に包んで差し出した。)があるようだが、私はこの形を見た時、各地の遺跡で見た紡錘車(Spindle Whorl)の形を思い出した。 糸が紡がれる際の回転を生み出す推進力となる紡錘車は線が始まる場所でありまさに世界の中心だ。人体はおへそを中心にして1つのスピンドルになっているのではないか。そう考えるとおへそがある場所は全て世界の中心と考えてもいいのではないだろうかと思えてきたが、少なくともこのオンパロスは”みんなにとってのおへそ”だったということだ。

帰国してすぐに旅の写真の現像処理を始めた。フィルム写真の現像をするのは初めてだ。今年に入ってから「ラインの発生」にまつわるスピンドルや回転について考え始めたことから、カメラの構造や現像の工程にも新しく興味を持っていた。

私は写真とドローイングというのは対極的なものと考えてきた。写真は自分の身体ではなく、機械に身体を預けることで現実を切り取る。一方でドローイングは、まっさらな白い紙に自らの身体を使って線を重ねていく。写真はそれを意図せずとも、現実の様々なレイヤーを同時に写し込んでしてしまうのに対して、ドローイングは意図した動きの線だけで構成される。ドローイングという手法で写真のように現実の多層性に近づこうとした場合、人工的にレイヤーを重ねていくことでしか現実の複雑性に近づいていくことができない。私がドローイングを通して行おうとしているのは、写真がボタン1つ押すだけで記述してしまうことを、あえてドローイングという手法を使って地図を作るように自分の手で構築することで「理解しようとする」ということである。それは人間が都市を開発したり、AIを作ることで知性とは何かを理解していくような指向性と近しい。都市や、意識という枠をさらに超えて世界を理解したいという人間に備わる本能である。

現像は全く慣れず迷いながらの作業だったが、実際にやってみてどうしてこれがやりたくなったのかよく分かった。暗闇の中でフィルムを太いリールに巻きつけ、38度の現像液をタンクに入れて軸を中心にくるくる回し、液体を撹拌させながらフィルムを入浴させる。それを何回か繰り返す。この時明確に「今私は世界の中心にいて糸を紡いでいる」と感じた。一度暗闇の中でフィルムをリールに巻き付けているときに、iphoneの画面が付いてしまった。その一瞬の光はフィルムをしっかり貫通したようだ。現像されたフィルムは、巻かれた周期ごとにリズムよく感光していた。

そういえば、よく言われていることなのかもしれないがカメラは3種の神器を掛け合わせたような仕掛けをしている。ピンホールから鏡像を作り、その像をフィルムに写す。ドローイングが人間の根源的な創造行為であるのに対して、写すということはやはりどこか人間の領域ではないことを行っている感じがする。写すことがある意味で神的な行為(カメラの中に世界を充満させること)だとすれば、現像するという工程はどちらかというと世界から線を引き出すこと、色や光、風を愛でながら「生きる」ということに対応しているのかもしれない。

Akari Fujise