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小さな空き地のように

小さな空き地のように 

「Where the Kiss Will be Tomorrow」という言葉は、イタリアの理論物理学者カルロ・ロヴェッリの『時間は存在しない』という本の一節を参照している。彼は最新の物理学の視点から物と出来事の象徴として石とキスを対比しこの世界を「キスの連鎖」であると表現する。

物と出来事の違い、それは前者が時間をどこまでも貫くのに対して、後者は継続時間に限りがあるという点にある。ものの典型が石だとすると、「明日あの石はどこにあるんだろう」と考えることはできる。一方キスは出来事で「明日あのキスはどこにあるんだろう」という問いは無意味である。[1]

確かに物理学の観点から直線的な時間の捉え方が崩壊したとき、過去の現象の所在を問うことにもはや意味はない。一方でこの世界が本当にキスの連鎖なのだとしたら、私たちの意識に絶えず生まれては消えていく石のような何かの正体はなんだろうか。最新の科学の見解に魅了され続ける一方で、そうであるのなら尚更、”あのキス”を失くしたかのように彷徨ったり、その幻影を形に残そうと必死になったりする人間の世界認識の特殊さに興味を掻き立てられる。著者は一度物理学的な観点から時間の存在を解体させたのち、人間の特殊でぼやけた認知に論点を舞い戻し、そこから時間の概念を再構築していく。

自分たちが属する物理系にとって、その系がこの世界の残りの部分と相互作用する仕方が独特であるために、また、それによって痕跡が残るおかげで、さらには物理的な実在としてのわたしたちが記憶と予測からなっているからこそ、わたしたちの目の前に時間の展望が開ける。あたかも明かりに照らされた小さな空き地のように。[2]

私たちはキスの連鎖の中でできた物理系にいながら、それをたびたび石のように認識し、それを愛でたりその喪失を恐れたりしながら生きている。”あのキス”の所在を問わざるを得ない人間の愚かさは、同時に生きることの手触りを生み出している。


私たちを浸している大気、この感情的な質について

日々生活する中で、私たちの気分は刻一刻と移ろいゆく。散歩をしていたら偶然目に入ったポスター。道端に落ちていた手袋。突然窓から差し込んだ光。外気にさらされて踊る洗濯物たち。それらがトリガーとなって突然思い出された記憶。大気は絶えず気分となって私とあらゆる他者を縫いつけながら解いていく。日々すれ違い様々な挨拶を交わす一方で、それぞれの異なる時間を生きる私たちは、このエフェメラルな連鎖の中で何を共有しうるのだろうか。この世界で他者と共に生きるとはどういうことだろうか。この問いに向き合うために、地球を取り囲み私たちの隙間を常に満たしている大気について再考したい。

文化人類学者のTim Ingoldは、ものを固定化されたオブジェクト(名詞)ではなく、生成し続けるライン(動詞)として捉えることであらゆるものを世界に参入させる哲学的な枠組みを提示した。その思想を「オブジェクト指向存在論:object oriented ontology(OOO)」に対抗して「結び目の世界、対象のない世界:world without object(WWO)」と名付けた。[3] 彼は「物を名詞としてではなく動詞として、つまり進行中のものとして世界に参入させることである。それは物に生命を与えることである。そしてそれはまた、太陽光や雨、風といった気象現象のような世界へ参入させることでもある。」と述べている。[4] この本の中で、彼は現代においてアトモスフィア(大気/雰囲気)という言葉が気象学的な意味(天気予報のように測量する観察対象としての大気)と、美学的な意味(感情の質に気分づけられた雰囲気としての大気)に分断していることを指摘する。そしてその対立を超えるためには、空気という要素で大気=雰囲気を再び満たす必要があると述べる。

気象学的なものと情動的なものの対立を超えるためには、つまり情動的な気象学と気象学的な情動を作るためには、空気という要素で大気=雰囲気を再び満たす必要がある。そしてそれは同時に、わたしたちが居住する世界は、固定され決められた形に結晶化されてきたものではまったくなく、生成し、変動し、流れる世界、つまり天候=世界であるということを認めるということだ。[5]

生命がブロックのような固い塊であるという捉え方は、環境を外部の対象として私から切り離す。一方であらゆるものを生成し続けるラインとして捉えた時、環境はもはや外部に存在するものではなく、天候や呼吸や感情の質として私たちと共に経験されうる。天候に揺らぎ空間の雰囲気に気分づけられたわたしたちはリズミカルなダンスのように調律される。その時キスに起こる感情的な質はそのまま風と共に結ばれて世界を織り上げていく。


世界を織り上げる

そもそもラインはどのように生成されるのだろうか。糸を紡ぐ際には、棒に紡錘車と呼ばれる円盤型の道具を付けることで棒に回転運動を生み出す。棒は紡錘車の重さで外側に引っ張られ持続的に回転することで、全体がバウンドしながら短い繊維を絡め取り一本の長い糸が撚りあげられていく。私たちをこの地球に引きつけて離さない重力、そして回転こそが、ばらばらなものたちを強固に「結ぶ働き」であり、ラインとしての生命を生み出す推進力となるようだ。

興味深いことに「織物(weaving)」という表現は現代物理学や東洋思想において世界を表象する比喩として使われてきた。現代物理学と東洋思想の類似を研究した物理学者のフリッチョフ・カプラはその関連性について以下のように述べている。

量子論は、われわれに万物を物体の集まりとしてではなく。統合されたさまざまな部分が織りなす複雑な織物としてみることを余儀なくするのである。(中略)現代物理学から生まれてくる宇宙的な織物の像は、東洋では、リアリティの神秘体験を伝えるものとして広く用いられてきた。ヒンドゥー教でいうブラフマンとは、あらゆる存在の究極的場である宇宙の織物を縫合する糸をさしている。[6]

また、彼はその織物の様子について以下のように述べている。

ヒンドゥー教、仏教、タオイズムの経典や思想書を詳しくみていくと、あらゆるものが「動き」「流れ」「変化」との関係でとらえられていることが明らかになる。このダイナミズムは、東洋哲学のきわめて重要な特徴となっている。万物は不可分な織物であり、相互の結びつきをダイナミズムとして捉えるのである。その織物は生命に満ち、つねに動き、成長し、変化する。[7]

あらゆるものをラインとしての生命、動詞と捉えると、この宇宙はラインが複雑に絡み合った一つの織物として描かれる。そしてその織物は縦糸と横糸がきれいに整列しているものというよりは、フェルトのように限りなく細かいラインが絡まり合いながら絶えず織り成されているのではないだろうか。


生成し、変動し、流れる世界のなかで描かれるドローイングとは

私たちは大気に浸りながら、天候に晒され、感情を揺れ動かしながら生きている。身体を持ち地球を覆う大気に依存して生きる私たちは、その隙間を埋める中間媒体についてもっと自覚的に考えてみてもいいのかもしれない。ドローイングにおいてもその中間的な役割を持つ支持体や大気について捉え直すことはできないだろうか。ここではドローイングにおける中間媒体を考察するために「紙そのものの可動性」と、紙を作る際の「水の粘性」に着目する。

私はドローイングに紙漉きの手法を応用している。紙漉は、楮などの紙の繊維を水に溶かし、細かな目の網で掬い上げることにより紙を成形する手法だ。”Where the kiss will be tomorrow”は水で溶かした紙の繊維のレイヤーの間に糸を置いて、自らの手でそれらを絡めていくことで線を描いていく。一般的にドローイングというと画用紙などの整った表面をもつ支持体の上ににペンなどで線を加えたり、洞窟の壁のようにすでにある表面を引っ掻くことで線を生み出すことが多い。一方でこの作品は紙も糸と同様に細かな線の集積として捉え、表面と線を同時に立ち上げる。表面と線の主従関係は揺らぎ、部分的には糸が紙を引き連れる。紙の繊維の中で糸を操作しているとき、水に溶けた限りなく細やかな紙の繊維が泥沼のようにもつれていることを意識する。私はその泥沼の中で、糸を沈めたり表面に引っ張ったりして絡めていく。それは様々なスケールの繊維を大気と一緒に絡めて一つの長いテキストを織り上げているようでもある。

紙を作るプロセスでは、水とネリが媒体としての役割を果たす。ネリは、トロロアオイという植物の根から作られる粘材だ。水に粘性を付ける理由は、絡まった繊維を固定し定着させることではなく、むしろ繊維を水の中でバラバラに分散させることにある。粘度のある成分が一本一本の繊維を包み込むことで独立させ、水の中で長い間浮遊することを可能にする。重力がラインを「結ぶ働き」をしていたことと比較して、水の粘度はラインを重力から一時的に解き放つことで絡まったラインを「解く働き」をするのだ。解くことはそれぞれの線に新しい運動性を与える。再度絡み合う際にも繊維がきちんと分解されていないと、和紙は分厚くても強度の低いものになってしまう。和紙が薄くても丈夫なのは、一本一本の繊維がきちんと解けた状態で絡み合うことができるからだ。

本作品で試みているドローイングの拡張を、あらゆるものを可動性のある「ライン」として捉えるという観点、そしてラインのインタラクションに関わる媒体に着目するという観点から、以下の4つに分けて整理する。

①表面の可変性
ドローイングにおいて紙は固定された支持体として見なされることが多いが、本来は紙も細かい「繊維」の集積である。本作品では紙の繊維を溶かして扱うことで繊維の一本一本を指で触り、糸と同様に線として描くことができる。紙は糸と同様に可変性のある線であり、また支持体としてドローイング全体を支える表面でもあるという両儀的な存在となる。

②線と表面の関係性
通常ドローイングにおいて、表面は線が動く場としての前提条件である。本作品では、表面が可変性を持つことで、表面と線は共に描かれうるものとなり、時には線の動きが表面を引き連れる。

③表と裏の関係性
本作品は、一本一本の紙と糸の繊維がねじれた状態で絡み合うことで表面が形成されていく。そういう意味で表と裏という概念ははそれぞれの繊維の中で「ねじれている」と捉えることもできる。

④ドローイングと大気の関係性
通常ドローイングは支持体を固定して展示するが、本作品は繊維が空間の中に「散らばり」鑑賞者と共に空間の中で呼吸をするように揺れ動く。


動詞と名詞の間で揺れ動く一枚の膜

バックミンスター・フラーはアポロ9号の宇宙飛行士だったラッセル・シュワイカートとの対談の合間に以下の詩を即興で走り書きし、対談の後彼に贈ったという。

Environment to each must be
“All that is excepting me.”
Universe in turn must be
“All that is including me.”
The only difference between environment and universe is me…
The observer, doer, thinker, lover, enjoyer

それぞれの人にとって環境とは、
「私を除いて存在する全て」
であるにちがいない。
それに対して宇宙は、
「私を含んで存在する全て」
であるにちがいない。
環境と宇宙の間のたった一つのちがいは、私.......
見る人、為す人、考える人、愛する人、受ける人である私 [8]


この詩には環境と宇宙の差分である動詞としての「私」という観点が描かれている。Tim Ingold が述べたように、ドローイングという観点で世界を観てみるとあらゆるものを動詞として捉えることができる。例えば彼はhumanを名詞ではなく、”human”というまだ辿り着いていない地点に向かって進む”humanify”という動詞として表現した。[9]また、現代物理学の視点から見てもこの世界は動詞的であると捉えることができるだろう。素粒子は常に揺らぎ、生成と消滅のリズムを刻んでいる。

生成と消滅のリズムは、季節のうつり変わり、生きとし生けるものの生と死に表されるのみならず、無機質の本質でもあることを、現代物理学は明らかにした。(中略)素粒子は、ひとつひとつがエネルギーのダンスを踊っているだけでなく、それ自体がエネルギーのダンスなのだ。脈動する生成と消滅の過程を繰り返しているのである。[10]

一方で身体を持つ人間の認識世界は、物理学的な世界とは異なり「名詞的」な側面を持つ。人間の認識は、ミクロなレベルでの状態を全て考慮することができない「ぼやけ(粗視化)」によって制限されており、その特殊性によって記憶や痕跡や因果といった感覚が生じている。私はそれを捨象せずに世界を記述してみたいと思う。さらに、現代に生きる私たちはAIと共生し接続している。ぼやけを持たないという意味で極端に動詞的ともいえる知能が人間に接続する時、私たちの世界認識はどのように変化するのだろうか。

この宇宙は動詞と名詞の間で揺れ動く一枚の膜のようなものかもしれない。動詞と名詞、0と1、あるとない。そしてその間に隠された果てしない距離について。少なくとも今のところ、私たちはその往復を許されている。

参考文献  
[1] Carlo Rovelli(2018). The Order of Time Riverhead Books. カルロ・ロヴェッリ 富永星(訳)(2019)時間は存在しない NHK出版 p.98
[2] Carlo Rovelli(2018). The Order of Time Riverhead Books. カルロ・ロヴェッリ 富永星(訳)(2019)時間は存在しない NHK出版 p.184
[3] Tim Ingold(2015).The Life of Lines Routledge. ティム・インゴルド  筧菜奈子, 島村幸忠, 宇佐美達朗 (訳)(2018)ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学 フィルムアート社 p.44
[4] Tim Ingold(2015).The Life of Lines Routledge. ティム・インゴルド  筧菜奈子, 島村幸忠, 宇佐美達朗 (訳)(2018)ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学 フィルムアート社 p.43
[5] Tim Ingold(2015).The Life of Lines Routledge. ティム・インゴルド  筧菜奈子, 島村幸忠, 宇佐美達朗 (訳)(2018)ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学 フィルムアート社 p.160
[6] Fritjof Capra(1975)The Tao of Physics. Routledge. フリッチョフ・カプラ 吉福伸逸,田中三彦,島田裕巳,中山直子(訳)(2018)タオ自然学 工作社 p.155−156
[7] Fritjof Capra(1975)The Tao of Physics. Routledge. フリッチョフ・カプラ 吉福伸逸,田中三彦,島田裕巳,中山直子(訳)(2020)タオ自然学 工作社 p215
[8] 立花 隆 (1981) 宇宙からの帰還. 中公文庫 p.32-33
[9] Tim Ingold(2015).The Life of Lines Routledge. ティム・インゴルド  筧菜奈子, 島村幸忠, 宇佐美達朗 (訳)(2018)ライフ・オブ・ラインズ―線の生態人類学 フィルムアート社 p.228
[10] Fritjof Capra(1975)The Tao of Physics. Routledge. フリッチョフ・カプラ 吉福伸逸,田中三彦,島田裕巳,中山直子(訳)(2020)タオ自然学 工作社 p.268

Akari Fujise