Texts

泡から

それにしても時間という問いは何故こんなにも魅力的なのだろうか。その問いは他のあらゆる小さな問いを包含してキラキラ光っているように感じられる。また、私たちの暮らしの中に偏在している小さな輝きは、それに気づいた時にはもう時間という不思議と同じ大きさでつながっているように見える。

私にとって、時間というものの直感的なイメージは線というよりも「泡」に近い。例えば、私の身体は細かな時間の泡に取り囲まれていている。私もあなたも虫も犬もモノも泡に取り囲まれている。それぞれの気泡には異なる時間が流れていて共有されることはない。それは悲しいことではなく、不思議が簡単に共有されないということに似ているように思う。

時間が線ではなく泡であるならば、普段経験している線的(linear)な時間はどこからやってくるのだろうか。ドローイングという視点で世界を見つめるようになってから、「線の発生」ということをいつも頭の片隅で考えていた。線はどこから生まれているのだろうか。そもそも線に始まりはあるのだろうか。私が「線の発生」について考える時、いつも思い浮かぶのは透明なガラスでできたスピンドル(Spindle)のイメージだ。スピンドルは木の棒に紡錘車というビーズの形をした錘をつけて、その遠心力で棒が回転し糸が紡がれていくという仕組みだ。石に穴が空いたようなこの紡錘車の形は重力が生み出す必然的な形であったはずで、そのためかどの国の博物館に行っても紡錘車の遺跡が展示されているのを見かける気がする。その中にはシンプルなものから線状の細かな模様が施された装飾的なものもある。紡錘に関わる道具は文明の基礎であり、生活に密接しているものでありながらそれぞれの文化の中で祈りの道具としても扱われていたようだ。

線は、どこにもあるということもできるし、どこにもないということもできる。私はあえて、どこにもないという地点から考えてみたい。時間は本来はまだ運命づけされていない泡であり目には見えない無数のスピンドルによって透明な糸が紡がれている。それゆえにこの世界には線が溢れている。身体があるということは私にとってそういうことで、それによって重力があり、回転があり、糸を吐き出している。それはカメラの中でフィルムが回りながら進んでいくこととも似ている。フィルムは回っている限り世界をひたすら包み込み(envelope)ながら進んでいく。蚕や蜘蛛たちは糸を吐き出す。蚕はこの糸で繭を作り出しそこに籠る。紡錘車も無限に回転し糸を生み出し続ける。世界はいつも未現像のままだ。

Akari Fujise