Texts

A membrane that oscillates between verbs and nouns

 私がこの世のあらゆる現象の中で一番不思議に感じるのは人の意識、特にクリエイティビティについての問いだ。常識を変えるような革新的なアイディアから、日常にある小さな気分の変化まで、大小様々な創造活動が行われているがそれは一体どのようなことなのだろうか。宇宙の中に浮かんでいる多様な記号はどのように作用しあって一つの形になり生まれ出てくるのだろうか。下の図は、ドローイングを切り口として人間の創造性の仕組みについて自分の体感も含めて、整理をしたダイアグラムだ。それぞれのレイヤーに描かれる線のように、私たちは言語を用いて日々様々な線引きを行いながら世界を認識していく。一方で、それらの既存の線を解体し、また再構築する絶え間ないプロセスに人間らしい創造性が宿るように感じる。解体と構築には多様な深度がある。例えば誰かから受け取った言葉やコンセプトをそのまま言い換えて使用する場合などは上部のレイヤーを行き来している。一方深く解体された記号はときに集合意識(そしてさらにその深層)をも取り込みながら再構築される。これらのプロセスは、人間、都市、宇宙至るまで様々なスケールで存在している。多種多様な線の動きは、同じ大気に浸り天候のように影響しあいながら変化し続ける。

 私がドローイングを通して描きたいと思っているのは境界線というよりもむしろ、この「線の解体と構築」の絶え間ない変化の軌跡である。過去の作品では様々なマテリアルを用いて解体/構築それぞれのプロセスを可視化する方法を探ってきた。過去の展示『静かな解体の音が聞こえる』では、氷を紙の上で溶かすことで形が解体していくプロセスの痕跡を作ることを試みた。また『Songs to Make the Dust Dance on the Beams』ではデスクの痕跡をトレースする方法で記号の構築を行った。解体/構築それぞれのプロセスに向き合ったこれらの展示を経て、両方のプロセスの間にある多様性や複数性を一つの平面で表現することができないかということを考え始めた。

『Songs to Make the Dust Dance on the Beams』は今回の作品と同じく糸を使ったドローイング作品だが、2つの観点で課題があった。一つは「表と裏について」だ。作品の裏側には表側にトレースする中で無意識的に生まれたさらに複雑で豊かな表情が生まれていることに気づいていた。そもそもドローイングにおいて表と裏というのはどのような意味を持つのだろうか。ペインティングと比較して、ドローイングは線の描かれていない部分をまだ描かれていない余白ではなくある意味元々無かったもののように見なす。しかし身体を持ち地球を覆う目には見えない大気に依存して生きる私たちは、隙間を埋める中間媒体についてもっと自覚的に考えてみてもいいのかもしれない。すべてのインタラクションのクオリティは、この媒体の質によって決まっているとも言える。ドローイングにおいてもその中間的な役割を持つ支持体について捉え直す必要があるように感じた。

  二つ目は「刺繍という手法の制約」だ。刺繍は表面に2つの穴を開け、その間に糸が表と裏を行き来する。これは110110100001…と表記されるようなデジタル的な2進法とも言える。しかし私たちの意識含めてこの世界には量子コンピューターの計算方法のように0でも1でもあるような曖昧な状態に溢れており、むしろそこにまだうまく捉えることのできていないこの世界の豊かさや秘密が隠されているかもしれない。さらに、既に存在する痕跡から主観をなるべく排除して形を抽出するのだけではなく、目には見えないが潜在的に存在するような記号やリズムを発見するには、制作にもっとマテリアルと一体化してドローイングするような、余白のあるプロセスを取り入れる必要があるとも感じていた。

 今回展示する作品は紙漉の手法を独自に用いている。紙の繊維のレイヤーの間に糸を置いて絡めていくことで線を描く。紙も糸と同様に細かな線の集積であり、全てをラインとして捉えながら同時に立ち上げていく。通常ドローイングというと画用紙などの整った表面をもつ支持体の上ににペンなどで線を加えたり、洞窟の壁のようにすでにある表面を引っ掻くことで線を生み出すイメージがあるかもしれない。一方でこの作品は支持体と線の主従関係は揺らぎ、部分的には糸が紙を引き連れる。紙の繊維の中で糸を操作しているとき、水に溶けた限りなく細やかな紙の繊維が泥沼のようにもつれていることを意識する。私はその泥沼の中で、糸を沈めたり表面に引っ張ったりして絡めていく。それは様々なスケールの繊維を大気と一緒に絡めて一つの長いテキストを織り上げているようでもある。

 ドローイングという観点で世界を観察するとあらゆるものを動詞として捉えることができる。Tim Ingold の提唱したWorld Without object(WWO)は、ものを固定化されたオブジェクト(名詞)ではなく、生成し続けるライン(動詞)として捉えることであらゆるものを世界に参入させる思想である。例えば彼はhumanを名詞ではなくhumanというまだ辿り着いていない地点に向かって進むhumanifyという動詞として捉える。また現代物理学の視点から見てもこの世界は動詞的であるといえるだろう。素粒子は常に揺らぎ、生成と消滅のリズムを刻んでいる。超弦理論は閉じたひもと開いたひもの振動としてこの宇宙を描く。

 一方で、身体を持つ人間の認識世界は、物理学的な世界とは異なり名詞的な側面を持つ。人間の認識は、ミクロなレベルでの状態を全て考慮することができない「ぼやけ(粗視化)」によって制限されており、その特殊性によって記憶や痕跡や因果といった感覚が生じている。私はそれを捨象せずに世界を記述してみたいと思う。さらに、現代に生きる私たちはAIと共生し接続している。ぼやけを持たないという意味で極端に動詞的ともいえる知能が人間に接続する時、私たちの世界認識はどのように変化するだろうか。

 この宇宙は動詞と名詞の間で揺れ動く一枚の膜のようなものかもしれない。動詞と名詞、0と1、あるとない。そしてその間に隠された果てしない距離について。少なくとも今のところ、私たちはその往復を許されている。

Akari Fujise