Art Action UK Artist Residency 2021 にて制作
私はコンテンポラリードローイングの考え方を軸として制作を行っている。特に見過ごされた痕跡をモチーフとして刺繍などの身体的なアプローチを通して価値の転換、崇高さ、静けさなどを探究してきた。 コンテンポラリードローイングに出会ったのはロンドンで現代アートを学び始めた 2019 年である。日本では聞き慣れない言葉であったが、その特徴とも言える身体性やマッピングなど実践的な側面と同時にドローイングの哲学的な側面を学ぶ中で、両者を行き来することによるドローイングの概念の拡張に可能性を感じた。私が描くのは自己の内的な世界ではなく、環境と身体の狭間で生み出される線である。 制作においては時にレシピエントとなり、コントロールされる側に立つことで環境を取り込もうとしている。 今回のレジデンシー期間は、特にこのコントロールというキーワードについて探索するきっかけとなった。日常に偏在する見落とされた痕跡、特に流動的で儚い生きる痕跡を捕まえるために、「どこまでを自分がコントロールをし、どこまで環境に従うのか」という問いに向き合う必要がある。この問いと共に、新しい対象を発見し手法やマテリアルの実験を行った。
そもそも痕跡とは何だろうか?「痕跡」とは、時間の唯一の手がかりとも言えるかもしれない。痕跡を見たとき、人はそれが過去が存在した証拠として直感的に時間の感覚を感じることができる。一方でサハラ砂漠のキャンプに参加した時、自分の足跡が刻一刻と消されていく環境の中で時間感覚の大きな歪みを体験した。砂漠では今いる場所がいつ誕生し、いつまで続くのか予測するための痕跡が見つからない。手がかりをつかめず、自らの時間をも刻印できない環境の中で、時間の流れは砂のように手からこぼれ落ちていく。
「日が満ちて」というシリーズは、都市の舗道に描かれている退色した道路標示、側溝の蓋やベンチの間に挟まる小石、車道と歩道の間にライン状に並ぶ落ち葉など日常の生活に偏在する儚い痕跡からインスピレーションを得ている。この世に存在するあらゆる痕跡の中でも、それらは都市の環境とそこに生活する人の無意識的な動きの狭間で形成される。例えば道路標示は人の動きを誘導するためのサインであるだけでなく、それら自体が人間を含んだ自然と共に変化している「表面」であり、人はそれらのエントロピーの増大を通して時間の経過を確認することができる。
この作品は、満月の日に無数の人が行き交う公共の砂利場に描かれ、月が地球の周りを一回転するのと同じ日数放置された。今にも消えてしまいそうなその壊れつつある系は、まるで星屑のような表情をみせ、自然の持つ普遍的な物理法則の深淵さや無常感を感じさせるようだった。一方で系の解体の原因のほとんどは歩行する人の足跡やたまに通る清掃用の車であり、そういった人間の活動が表面の解体を異次元のスピードで加速させたということも事実である。
時間という概念について、アインシュタインはそれが単一なものではなく各空間において異なる時間が存在することを証明した。その後ボルツマンは、過去と未来の違いはミクロレベルでの正確な情報を考慮することができないという「人間の視界のぼやけ」によって生じるものであるということをエントロピーという概念を用いて証明した。現代の科学が直感的でない時間についての正体を解き明かし可能性を提示する一方で、それでもなお過去から未来へ向かって流れるように感じ、また他者と同じ時間を共有しているようにも感じる自分の時間感覚について考えるとき、このぼやけた視界をもつ私という身体へのもどかしさと愛おしさが同時に押し寄せる。